全てのことには意味がある?

あるレイヤー(抽象度)の人において、この「全てのことには意味がある」は非常に強力な友となるでしょう。
自分を責め、人を責め、何もかも放棄したいような向きの人にはこの言葉はその人に何かしらの
気づきを与えるかもしれない。
しかし、この抽象度のまま居り、この言葉を真実だと思ってしまっては本末転倒だと思う。

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当たり前だが、「意味」とは人間が作った「概念」である。
これが当たり前だと思わない人は、「意味」とは何であるか、何に使っているのか、どういう目的で使用しているのか、まずは考えてみよう。
これを考えれる抽象度に無い人は、「全てのことには意味がある」でも構わないと思う。
または、抽象度に無い人に伝える場合にも、この言葉は有効だと思うし、
実際にこの世界で暮らして、誰かと話すためには「意味」という概念を使わざるをえない。
逆に言えば誰とも話していないときには「意味」という概念を使用しなくても良い。

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「概念」であるからして、それは頭の中の思考に過ぎない。つまり人によって、何かの意味は
違うということだ。
簡単に言うと、こうだ。

「意味」とは、「何か」に「或る」ものではなく、
「誰か」が、意味があると思う「事柄」、「もの」に対して、頭の中で「意味をつけている」
ということだ。

物事に意味があるのではない。物事に意味が無いのではない。
「意味という概念」「意味という考え方」自体が単なる思考に過ぎない。
思考すればあるし、思考すれば無いのだ。

犬や猫が何かをみて、「これは意味がある」と言うだろうか?
たぶん、言わないだろう。
なぜなら「意味という考え方」、「意味というゲーム」をしていないからだ。

貴方も、「これには意味がある」と考えているときには意味があるし、
とくにそれについて考えていないときには意味など無いことに自分で実験して
気づくことができる。

我々はあまりにも当たり前に「意味」というものを使っているので、
「意味」を使わなければならないとすら思い込んでいる。
「意味」とは野球のルールの一つみたいなもんだ。
現実世界において野球のルールを課して暮らしている人がいるだろうか?
いや、いるかもしれないがおそらく趣味の範囲に止めているだろう。
ならば、「意味」も趣味の範囲に止めておけるはずだ。


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