プロとして

例えば、何かしなければならない仕事をどうしても放り出さなければならない状態の時に、
人はこういう言い方をしたりするだろう。
「それはプロとして失格だ」
ああ、うん。間違っていないと思います。
ただし、それを言った人の「プロ」という概念として。
当たり前だが、「プロ」とは概念だ。「プロ」という概念自体が頭の中の作り物であるから、
当然プロの定義、プロの内容はその人その人が勝手に妄想したモノに過ぎない。

いちいち面倒だけど一応言っておきます。
私は何もプロという概念を否定しているわけではない。
これからはもうこれ、関数にしてwg();
とかにしておきたいですね。

人は時に外部の人にそう言って「プロとはこうあるべきだ」を主張する。
なぜ主張するかというと、その人にとってそれを一般化する事が、説得する要因として大きくなるからである。要するに人を洗脳したいから、そのほうがその人にとって都合がいいからだ。
なぜ都合が良いかというと、その人はそれ(こうあるべきの内容)をやっとの思いで獲得し、
自分はそれが出来ると主張したいし、それが出来るのは私だから私に利益があるようにしてほしいからだ。

このように言われた人は、「プロとはこうあるべきだ」と洗脳される。たいていの場合、
これを言われるのはプロとして未熟な者なので、この言葉に従おうとする。
この言葉に従い、この人はまたやっとの思い出プロとしてあるべき内容を獲得し、また
次世代へ受け継いでいくのだ。

さて、ここで獲得できる者は良いだろう。この洗脳システムに旨い具合に乗っかって、
旨いことやっている人は構わないだろう。(洗脳システムだと気づいていれば)

獲得できない人はどうだろうか?
この、誰かが勝手に作った「プロとはこうあるべきである」論をやろうとして、
脱落した者は?

「その人は脱落したからプロではない」こう言う人もあるだろう。
こう言って、その人を切り捨てる大いなるバックとして
「プロとはこうあるべきである」はまた役に立つ。
普段そんなにガっとモノを言えない多くの人でも、
このバック、後ろ盾を元に、「おまえはプロではない」と言ってのけるのだ。
そして、バッサリと切り捨てるのだ。

さて、プロとはどうあるべきだろうか?




written by rr



神との対話を語る会は、
ニール・ドナルド・ウォルシュ氏が書いた「神との対話」を
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