ZMD
命はその人のものだ
人の生き死にをとやかく言えるほどキミは偉いのかい?
こんな言葉がある作品で言われていた。
これは、偉いとか偉くないとか言う問題ではない。
偉ければ人の死にとやかく言える権利が与えられるわけではない。
偉くなければ人の死にとやかく言える権利が無いわけではない。
これは実に単純な問題だ。
これは、「権利」という、人間が作った概念が存在することを前提にしているから
こういうことになる。
「権利」とはあくまでも単なる人間が作った頭の中の妄想なので、使っても、使わなくても良いのだ。
それなのに、あたかも「権利」という概念がまるでこの世の中に存在し、使わざる得ない宇宙の法則だとでも言うように
扱ってはややこしいことになる。
だからこういうとき、こう言えば良いのだ。
「権利」という概念を使用することを前提にすれば、とやかくは言えないが、
使用しなければどうでもいい話だ、と。
しかしそれを言ったらおしまいじゃないか。そう言われそうだ。
ああ、そうなんです。実はそれを言ったらおしまいなんです。
おしまいで、良いんです。
written by rr
神との対話を語る会は、
ニール・ドナルド・ウォルシュ氏が書いた「神との対話」を
読んで感銘を受けたが今はどうしているのか謎の人達の勉強会(学習会)です
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神との対話
このブログを見ると、物事に意味は無いとか、権利は妄想だとか
神との対話で確かに言っていた気がするけど、何か感じることと違うんですけど?
もっと愛を感じたりプラス方向に考えていくのが神との対話じゃないの?
と
考える人も多いと思います。
または、神の死者と比較して、神の使者の方が遙かに悟りに近い。
神の使者は神との対話を否定しているし、物事に意味は無いと思う
と
考える人も多いと思います。
その人の考えは、神との対話をある抽象度の読み方をすると、実に理にかなったものだと思います。
社会を、世界を、どの抽象度で捕らえているかによって、神との対話をどう読めるか決まります。
良く読み込めば、実は両者の言葉は全て神との対話に入っています。
これはどういうことなのでしょうか?
簡単に言うとこういうことです。
神との対話は、一度物事の本質を悟ってから、それからどう人間というゲームを、社会という
ゲームをプレイするかということを書いているということなのです。
ここからは、言葉をという概念を使用しているという前提で読んで下さい。
そうすれば無駄な突っ込みをする必要もなくなります。
概念から解放されても、私たちは実際問題、脳(という概念)を変えることは出来ません。
たとえ瞑想していても、殴られれば必ず現実社会に戻ってきます。
私たちは存在(という概念)しない社会(という概念)を、存在しない人間を演じなければなりません(という概念)。
そのとき、我々はどう演じれば気楽に、そして効率よく生きられるか?
それは神との対話は言っているのです。
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