全ては完璧なんですか?

神との対話では、こう書かれてい(たような気が)する。
「世界は完璧だ。この世は完璧だ。神は完璧だ。足りない物など一つもない」と。
これはどういうことなのだろうか?
我々は本当に完璧なのだろうか?
失敗したり、頭が悪かったり、足が遅かったりするのではないか?
どこが完璧なんだろうか?
そう思うことだろう。
我々が実際に思う感覚と、神との対話で言っている事はあまりにもかけ離れている。
とても真実だとは思えない。
こういう人が多くを占めると思う。


これは、少し言葉を足せばわかりやすくなる。


「完璧」という概念を使用した上で、「絶対」を「完璧」と考えるなら、世界は完璧である。


そもそも、「完璧」とはどういうことだろうか?
例えば、Aさんはプラモデルを作っている。説明書通りに作り終わり、Aさんはこう言うだろう
「完璧だ」と。
しかし、プラモデルオタクのBさんがそこへやってきて、こう言う。
「これは不完全だ。バリもいっぱい付いているし、着色もしていないじゃないか。」


そう、「完璧」とは常に、いつだって「相対的」な問題にほかならない。
Aさんにとってはプラモデルが組み立てられていない状態が不完全であり、
組み立てられれば完璧。
Bさんにとっては、着色していない状態は不完全であり、
着色してバリもない綺麗な状態が完璧なのだ。
そういうものだ。


つまり「完璧」とは、ある主観者にとって、
何か(ここではプラモデル)が何かであるために、
「満たすべき条件」が満たされた状態を完璧と呼ぶ、一種の「ゲーム」みたいなもんだ。
だから、Aさんにとっては着色していなくてもプラモデルとしては
完成する条件に満ちているので、これは完璧なのだ。


ところが、一般的には「完璧」とは何か?なーんて事を今更考え直す人は実に少数で、
「完璧」とはゲームみたいなもんだなんて誰も思っていない。
「完璧」とは物理的に存在する事実ぐらいに思っている。


要するに「完璧」とは、単なる考え方であり、概念と呼ばれる物だ。
犬や猫、あるいは実際に地球上でも存在する少数の民族では、そんな考え方自体をしない。
だから何一つとして「これは完璧である」なーんて事は言わないし、考えもしないし、感じもしない。


ここで話を戻そう。
「世界は完璧である」とはどういうことだろうか?
「世界は完璧である」--主観者が「そう思っている」状態--なわけだが、
これは、主観者にとって、対象が「完璧である」と思う条件に満ちているということである。
しかし、その対象というのは「世界」であったり、「我々」であったり、「全て」であったり、「神」であったりしており、
これらは全て全体性を指している。
全体性を指しているということは、「全体以外」が存在せず、
比較する対象がないということだ。
(プラモデルの例で言えば、Aさんしか居ない。AさんはBさんと比較できない。)
つまり、世界はひとつしかないので、世界以外と比較することができず、よって
何かと比較して「完璧」と言うことができない。
これが絶対の状態であり、そしてそれを完璧と呼ぶことができるわけだ。


しかし、実際には「完璧」とは単なる考え方の一つであり、概念に過ぎない。
だから本当はこう言うのが正しいかもしれない
「完璧だと言えば完璧だし、不完全だと言えば不完全だ」


では、なぜ神との対話では、あえて、ありもしない「完璧」という概念を使用してまで
完璧と言う必要があったのだろうか?


前述したように、ほとんど多くの人は「完璧」を概念だったりゲームだったり
だなんて思っていない。
「完璧」とは本当に存在する事実だと思っているので、そういう人に
「完璧」とは概念ですよ、と伝えたところで、まず間違いなく理解することができない。
そういった人が、「私は不完全なんだ」と自己嫌悪に陥っている場合、
あなたは不完全だと言うよりは、
あなたは完全と言った方が遙かにマシだからである。



ちなみに、こういった「すべては完璧」という使い方は、
神との対話やその他の作中では色々な言い方で出てくる。
例えば、「すべては光」もそういったものの一つだ。
光と言えば何となく良い気持ちになるが、全てが光りで、光以外が無いのなら
その世界では比較することができないので、「すべては光」だなんて自分たちで
言うはずがない。
だから本当は、光でも闇でもなんでもない。それはただ、「そう呼んでいる」だけに
すぎない。とはいっても、
「すべては闇」だと言うよりは全然マシなのである。

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考えない練習

考えない練習


この本はとても簡潔に、そして歯に衣着せずに語っています。
おすすめの本です。

いくつか抜粋すると、

脳研究者池谷裕二との対話:
池谷:人間の行動はほとんどが脳の反射によるもので、本当は自由意志なんてないんだ、
自由否定しかないんだというと、そのことを悲しいととらえる人がとても多くて、
逆に私は衝撃を受けたんですけどね。
反射しかないんだったら、その反射を鍛えれば良い、むしろやることが限られてて良いじゃない
のかと思うんですが。

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4月4日、
神との対話を語る会花見がありますよ。
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思い

私たちは、実に様々な方法、様々な種類で、「思い」というものに大きな価値を付けている。
思いは届くと言ったり、思えば叶うと言ったり、思えば現実になるとまで言う。
それはそれで間違っていないし、「思いの世界」ではそれは現実だろう。
しかし、よくよく考えてみてほしい。
そもそも「思い」「思う」とは何だろうか?
私たちは全て人間で、実際にはほとんど機能に差はないと言える。
私たちの誰かが、自分の中の何かを「思い」と呼びだし、
それを我々は使用しているのである。
とすると、全ての人は自分自身で「思い」とは何かを定義できるし、
それは何かを見いだせるはずである。
一般的に多くの人は「思い」とは何か、を自分で定義することなく、外部の、
「思い」とはこういうものである、という情報を子供の時に教えられて
鵜呑みにしている。
子供の頃に教えられた情報は当たり前にあるものとして、
今後一切考えることなど全く無いのが普通だ。

まあ、よっぽど死ぬ思いをしたような人とか、なぜかしら周りの人と自分の
下地が違った場合に考えることがある程度だろうか。
ちなみに、これらはどういう人かというと、一般的に言うと「相当な変人」である。


さて、「思い」とは何か?
単刀直入に言うと、「思い」とは「脳の自動おしゃべり」である。
このブログでも何度も言っているが、このおしゃべりは完全自動である。
ちなみに禅なんかは、このおしゃべりを雑念と呼び、瞑想によって取り除いていく、というようなことをやっている。
実は、みんな「思い」とは自動であることを知っている。
私たちは、悩んだり、怒ったときに、時としてこういう言い方をする。
「考えたくないのに考えている」
この言葉を皆使っているのに、不思議なことにこれに全く疑問を持たない。
ところが変人は、このように疑問を持つのである。


考えたくないのに考えている、ということは自分で考えているわけではない


その通りである。我々は、自分で考えてなどいない。全ての思考、思いは
まったくもって完全に自動で出てきている。
これは自身を観察してみればわかる。


といってもたいていの人はそんなことはしない。
しないというよりもやり方がわからないと言う。

しかし、ある種の変人は、そうやって言われて観察してみる。
観察してみて、実験する。まあ、1,2時間実験してみて、
こういう結論に達する。
「確かに勝手に出てくる事が多いが、自分で考えようと思って考えることもある」と。
まあ、順調です。とりあえずここまでは来る。

しかし、これに気づかない。
「自分で考えようと思って」は誰が考えたんだろうか?
誰が考え始めたのだろうか?

じゃあ、じゃあ、「今から考えはじめる」をやればその証拠になるんじゃないのか?
引き下がらない人はいるだろう。
じゃあ、やってみたらいい。5,4,3,2,・・1・・・「考えた!」
「俺は自分で考え始めたぞ!」

・・・・その数のタイミングを取っているのは誰ですか?


これらの話を聞いてあなたは
「私は自分で考えていないらしい」と思うだろうか
「それを自分で実験してみる」と思うだろうか。

たいていの人は前者であり、そして前者は何一つ気づくことは無いし、
悩みを消すこともできないだろう。


さてさて、話は戻って、この
「単なる脳の自動おしゃべり」がいったい何だというのだろうか?
どこを、どうみても単なる脳の自動おしゃべりであって、それ以上でも
それ以下でもない。それは観察してみればわかるはずだ。
この、「自動おしゃべり」を我々は「思い」と呼び、大きな価値をつけているわけだが、
これらに何か大きな差を感じないだろうか?
我々が一般的に今までに思い込まされてきた「思い」と全く違わないだろうか?
あなたは、あなたが見つけた「「思い」とは何か」と、一般的に言われている
「思い」をどっちを取るだろうか?
それは、貴方の思い次第である。


written by rr



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プロとして

例えば、何かしなければならない仕事をどうしても放り出さなければならない状態の時に、
人はこういう言い方をしたりするだろう。
「それはプロとして失格だ」
ああ、うん。間違っていないと思います。
ただし、それを言った人の「プロ」という概念として。
当たり前だが、「プロ」とは概念だ。「プロ」という概念自体が頭の中の作り物であるから、
当然プロの定義、プロの内容はその人その人が勝手に妄想したモノに過ぎない。

いちいち面倒だけど一応言っておきます。
私は何もプロという概念を否定しているわけではない。
これからはもうこれ、関数にしてwg();
とかにしておきたいですね。

人は時に外部の人にそう言って「プロとはこうあるべきだ」を主張する。
なぜ主張するかというと、その人にとってそれを一般化する事が、説得する要因として大きくなるからである。要するに人を洗脳したいから、そのほうがその人にとって都合がいいからだ。
なぜ都合が良いかというと、その人はそれ(こうあるべきの内容)をやっとの思いで獲得し、
自分はそれが出来ると主張したいし、それが出来るのは私だから私に利益があるようにしてほしいからだ。

このように言われた人は、「プロとはこうあるべきだ」と洗脳される。たいていの場合、
これを言われるのはプロとして未熟な者なので、この言葉に従おうとする。
この言葉に従い、この人はまたやっとの思い出プロとしてあるべき内容を獲得し、また
次世代へ受け継いでいくのだ。

さて、ここで獲得できる者は良いだろう。この洗脳システムに旨い具合に乗っかって、
旨いことやっている人は構わないだろう。(洗脳システムだと気づいていれば)

獲得できない人はどうだろうか?
この、誰かが勝手に作った「プロとはこうあるべきである」論をやろうとして、
脱落した者は?

「その人は脱落したからプロではない」こう言う人もあるだろう。
こう言って、その人を切り捨てる大いなるバックとして
「プロとはこうあるべきである」はまた役に立つ。
普段そんなにガっとモノを言えない多くの人でも、
このバック、後ろ盾を元に、「おまえはプロではない」と言ってのけるのだ。
そして、バッサリと切り捨てるのだ。

さて、プロとはどうあるべきだろうか?




written by rr



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神との対話

このブログを見ると、物事に意味は無いとか、権利は妄想だとか
神との対話で確かに言っていた気がするけど、何か感じることと違うんですけど?
もっと愛を感じたりプラス方向に考えていくのが神との対話じゃないの?

考える人も多いと思います。

または、神の死者と比較して、神の使者の方が遙かに悟りに近い。
神の使者は神との対話を否定しているし、物事に意味は無いと思う

考える人も多いと思います。

その人の考えは、神との対話をある抽象度の読み方をすると、実に理にかなったものだと思います。
社会を、世界を、どの抽象度で捕らえているかによって、神との対話をどう読めるか決まります。

良く読み込めば、実は両者の言葉は全て神との対話に入っています。
これはどういうことなのでしょうか?
簡単に言うとこういうことです。

神との対話は、一度物事の本質を悟ってから、それからどう人間というゲームを、社会という
ゲームをプレイするかということを書いているということなのです。

ここからは、言葉をという概念を使用しているという前提で読んで下さい。
そうすれば無駄な突っ込みをする必要もなくなります。

概念から解放されても、私たちは実際問題、脳(という概念)を変えることは出来ません。
たとえ瞑想していても、殴られれば必ず現実社会に戻ってきます。
私たちは存在(という概念)しない社会(という概念)を、存在しない人間を演じなければなりません(という概念)。
そのとき、我々はどう演じれば気楽に、そして効率よく生きられるか?
それは神との対話は言っているのです。



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